2016年5月18日水曜日

神武東征は邪馬台国の男王の逃亡ルートだった  説。

神武東征の謎の一つに
最初の頃宇佐の次に遠賀川の河口である岡田宮に行ったことがあります。


安芸=広島に7年もいるのですから
岡田宮に行かず最初から宇佐から安芸に行けばいいわけですね。
わざわざ関門海峡という難所を越えて岡田宮=遠賀川河口のゾーンに行くのは
これは不自然極まりない。
軍団を募って合流するために行ったという話があります
⇒その場合、やはり安芸に7年、吉備に8年はおかしいですね
この頃周防から宇佐というのが交通の本線です。
景行天皇の九州遠征のときもそんなルートで九州に上陸してますね。
本州と九州の最短距離は、関門海峡を除くと
姫島から周防です。

宇佐周防というのは近いし、この地域は双方向こうが見えます。
本州と九州の接合点というと関門海峡が思い浮かびますが
航路として最高なのは宇佐から国東です。凪いでるし
広島から下関までの山岳ゾーンを歩かないでいいし、
そこを海路でいくなら同じ距離で宇佐経由の方が合理的です。

だから奈良方面に侵攻するなら宇佐からそのまま周防へ渡るのが当たり前です。
だからやはり逃亡経路なのだと思うのですね。
岡田宮までくると、宗像三女神の沖ノ島航路があります。
この航路に乗って半島に逃げようとしたのではないでしょうか。
奴国や一支国、対馬国は卑弥呼共立のメンバーでしょうから
受け入れるのは厳しかったでしょう。

半島のどこを目指していたかというと
帯方郡でしょう。
倭の王であると言えば政治的に利用できるということで亡命を受け入れたと思うのですね。
少なくとも情報はわんさか取れるわけですから。
するとまあ、こんなルートになります。

本当の神武航路
半島は沿岸を行くかもしれませんがだいたいこういう感じですね。

神武東征とは本当は岡田宮から沖ノ島を経由して半島へ逃げる逃亡だった。
それが岡田宮から断られたので仕方なく宇佐に引き返し、東へ向かわざるを得なくなった。

帯方郡
帯方郡(たいほうぐん)は、204年から313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点。楽浪郡の南半を割いた数県と、東の、南の韓、南端の(半島南端)がこれに属す。
公孫氏
後漢の末、中平6年(189年)に中国東北部遼東太守となった公孫度は、勢力を拡大して自立を強め、後漢の放棄した朝鮮半島へ進出、現在の平壌付近から漢城北方にかけての一帯にあった楽浪郡を支配下に置いた。

こういう話でみると
逃亡の王は帯方郡ではなくて公孫氏時代に半島に向かったのかもしれません。
さらにこうなると倭国大乱中の倭に介入し、倭の実効支配を目指したかもしれません。
そして混乱収拾のために倭王は公孫氏の誘いに乗って手を結ぼうとした。
それに慌てた他の国々は、卑弥呼を共立して大乱を終わらせた。
男王は廃位の上公孫氏のもとへ逃げようとした。

そうなるとややこしくなるので
岡田宮で追い返した。

そんな話でした。

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