2016年5月18日水曜日

猿田彦は世界を駆け巡る

南九州の地図を見ていると猿田彦神社が高千穂や鹿児島にありました。福岡市内のよく通る道に猿田彦神社があるのでもちろんそれがオリジナルだと思っていたのですが、全国でどれだけあるのかなと思ったら、なんと若狭湾とか琵琶湖とか尾張、河内にありました。
何なのでしょう・この猿田彦の数は。
そしてよく見ると
これはまさに天孫降臨といわれる進路の通り道ではないですか。
見事に。
以下は想像です。
猿田彦は道案内。博多湾に上陸した天孫族を高千穂へ案内した?霧島の高千穂には、薩摩湾に上陸天孫族を案内した。

邇邇芸尊が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。その神の鼻長は七、背長は七、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であった。そこで天照大神高木神天宇受売命(あめのうずめ)に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。その神が国津神の猿田彦で、邇邇芸尊らの先導をしようと迎えに来た。
邇邇芸尊らが無事に葦原中国に着くと、邇邇芸尊は天宇受売神に、その名を明らかにしたのだから、猿田彦を送り届けて、その名前をつけて仕えるようにと言った。そこで天宇受売神は「猿女君」と呼ばれるようになったという。なお、『日本書紀』では、猿田彦が天鈿女命(あめのうずめ)に自分を送り届けるように頼んだとなっている。猿田彦は故郷である伊勢国五十鈴川の川上へ帰った。
なんと近畿地方や尾張にも。若狭湾にも琵琶湖南岸にも。
これは伝承によるホアカリノミコト=饒速日の天孫降臨のルートです。
しかもぴったり一致ではないですか。
衝撃的です。ホアカリノミコトの神社とも結構一致している。
冠島に降臨して、若狭湾に上陸した。
若狭湾→琵琶湖
琵琶湖に来ると当然その南岸から河内平野へ。
琵琶湖南岸→河内平野
あるいは琵琶湖→尾張
つまり近畿の猿田彦の神社は饒速日(ニギハヤヒ=ホアカリノミコト)の天孫降臨ルート

九州の猿田彦神社は邇邇芸命(ニニギノミコト)の天孫降臨ルート。
猿田彦は天孫降臨ルートの地元民の案内役の総称。
天孫降臨作戦は海神族の農地取得作戦=陸への征服戦争。
かもですね。
丹波からのルートで猿田彦神社をつなぐと
まさにホカリノミコト=饒速日の進出ルートです!!
上の地図を海からの視点でルート付きでもう一度。
猿田彦神社は点在しているのではない。
きっちり天孫降臨ルートに道標のように配置されている
 一方博多湾からのルートでつなぐとまさにニニギたちが通ったルートです。
なんという部族でしょうか。
倭を駆け巡る神出鬼没の猿田彦。
猿田彦とは天孫族を案内した列島の地元部族
というか
内通して案内した地元部族を猿田彦と呼んだのかもしれませんが。

こう読むと猿田彦神社の全国的点在に一つの答え=考え方ができるかなと思いました。

食料と人口と邪馬台国  おおざっぱな考え方

邪馬台国は7万戸、奴国は2万戸、投馬国は5万戸。とあります。
邪馬台国の人口は戸数×4人として約30万人。近隣の奴国も8万人として合わせて35万人くらいはいる。投馬国は5万×4で20万人。
この世界はこまごま併せて60万人くらいがいたということではないか?いやそういうことですね。
60万人分が食べるだけの米をどこで作るのかといえば広い平野です。その観点から博多湾岸の狭い地域に邪馬台国があるというのは無理です。女王の場所だけならはともかく、地域としての邪馬台国は30~40万人分の米を作れる平野が必要です。
それは博多平野から佐賀平野にかけての平野全部だと思います。
海沿いのひとはもぐって海産物や魚をとってたとかイノシシを狩ってたとかはなしです。60万人が確実に食べていくには博多湾と有明海でどれだけ漁をしても無理。米作です。そもそも米作のために国ができたのではないか。日本列島のように恵まれた土地では、普通に暮らすだけなら狩猟採集生活で十分暮らせるのです。世界で最高レベルの恵まれた島です。

この観点で考えると、邪馬台国論争は水行陸行とかいろいろあるけど
場所としてはもうきわめて限られる。
日本中に広げても限られるでしょう。
50万人前後の食料確保に適正な規模を持つ平野ということです。

 邪馬台国30万人を食べさせるのは佐賀平野から博多平野。邪馬台国を核とする邪馬台国連合はさらに直方平野と宇佐中津平野を含み、日田から流れる川が両方の平野に流れます。日田は交通の要衝地です。

そうです、博多湾から有明海の沿岸の佐賀平野までは一つのつながった平野です。普通の日本地図では福岡県と佐賀県の境が邪魔になって気づきませんでした。緑色が平野というのが地図ですが・・・・・
グーグルアースを見ることで、初めてくっきりと平野が浮き上がります。
日本地図で緑色が平野と知ってみても、それほどピンときませんでしたが衛星写真でみるとこれほど一目瞭然とは。驚きました。この山の間を縫うようにして広がる平野。
ぼくはじつは大宰府あたりに住んでいます。両側を山に囲まれています。よく日田や、久留米に行きますが、このあたりの平野は果てしなく広がる感じです。そしていつも両側に山があり囲まれている。
だからこの山は門のようだと。山の門を通って女王の都に行くのだと。山の門にかこまれた地域だと。
(山の門!やまと国か?山の門を越えていく国。山門国、やまとこく、邪馬台国)

くどいですが、平野探しという観点からみると僕も初めて気が付きましたが、博多湾から有明海に向けて、途中大宰府あたりの狭い山の門のようなゾーンを越えてひとつながりの平野なんですよね。そして北部九州にはこんな規模の平野はほかにない。しかも博多湾と有明海に向かっての川がある。
米作のためにあるような土地です。宇佐あたりの平野はそれほど広くはありません。でも海と山に囲まれた豊かな土地です。
このあたりに住んでましたが、海はいつも意識の中にあります。周防あたりと地理的にはつながっていましたね。海で交易し、山に向かえば耶馬溪を通って山国があり、(山国川沿いに耶馬溪はあります)その先が日田です。
日田まで行くと、筑後川を下るだけで筑紫平野です。宇佐は有機的に筑紫平野につながっています。
下記参照。
九州全体でみてもこの規模の平野はあと熊本平野のみです。熊本平野ってなんでしょうか?狗奴国でしょうか?
博多湾と糸島あたりの一地域が本拠地であっても、食料のための農地として、筑紫平野全域は邪馬台国連合でなくては、そもそもクニがなりたちません。

博多湾と有明海に挟まれた天然の農地、この広さ、この土地に最大の政治勢力がなくして一体どこにあるというのでしょうか?
両側が海。現在のアメリカ合衆国のようではありませんか。豊かな土地と、豊かな海。二つの海で行う、交易。日田も抑えてれば内陸の道での交易もある。
筑紫平野にクニがあればそれは地理的必然として、スーパーパワーとなります。
政権発祥の地は山奥や島にあっても、
大きな国を作ったとしたらそれはその人口がが食べていける土地の支配ということであり、
その土地の防衛のために都はその土地の中にある、
この議論がでないのは海洋国家日本が地続きの国境をもたないため
わたしたちが国を守るという概念を持たずに、
国のなりたちを考えるからではないでしょうか。
例えば日田の戦略的重要性。九州を抑えるには日田を取らねばならないというのは、徳川家康も気づいていたのです。地図を見ると、黒田藩(福岡)の背後をつけるし、熊本藩も睨めるし大分平野も中津宇佐平野も支配し、鹿児島も睨める。大きな平野に向かってみなその背後をとれるのが日田。だから筑紫平野の勢力は絶対に、必ず、日田を抑えます。筑紫平野にとって日田は防衛上必須の地域です。

グーグルアースと食料生産性の観点からも邪馬台国は博多佐賀平野。
博多湾と有明海に囲まれた、豊かな平野。
こんな場所はあとは瀬戸内海と日本海に囲まれた、河内平野、琵琶湖、若狭湾のあたりだけですね。まさに近畿説の場所です。
立地的には、この二か所しかない。そしてそのうちの筑紫平野のほうだと思っています。

空白の4世紀に中国で起こったこと

周、秦、漢や隋、唐や宋や元や明など。古代から中世の中国について統一王朝については割と頭に残るけど
分裂状態の詳細はなかなか覚えられませんでした。
春秋戦国の勢力図とか、唐がほろんで趙匡胤が宋を建国するまででとか。

そしてもちろん、三國史の世界。三国史まではついていけるけど、
しかし魏が統一してからはあいまいになります。
そのあと晋に禅譲があったなどとは、全く記憶にありませんでした。
 
しかし漢詩で六朝文化に触れて歴史が頭に入ってきました。
そしてこの時代、まさに邪馬台国のとそのあとの時代
いわゆる空白の四世紀の中国の大混乱の状態がある程度頭に入ったのです。

六朝の一覧[編集]

東晋からが南北分裂時代の開始です。ここからは北の中原は北狄の跋扈する時代です。
317年から589年まで、いえ晋の滅亡は312年だから実に277年にわたって全体としては混乱。
そして半島への通路である北側は北狄の国で東夷には無関心。
倭はベネチアが遠いビザンチン=東ローマと親交し、近くのローマとは緊張関係にあるというのとちょって似ている。
南朝は遠いが、そこが正統中国として奉じ、北側とはお互い無関係。
この250年、実は空白の4世紀どころでない。
このときに唐や漢があれば、日本建国の秘密はことごとく明らかに。
世界史の授業でも唐の統一についてとか、唐の政治、漢の政治などは詳しく教えるけど
六朝やそのときの北方の全体としての混乱はあまりテーマにならない。
この50年くらいで移りゆく地図。
 
 北魏は仏教を信奉し、漢化した北狄国家です。有名な国ですね。
 北魏の分裂です。東晋は梁にまで変わっています。
 陳になりました。だいぶ全体はまとまりました。


ようやく589年に隋による統一。しかし圧政によりすぐに唐に変わる。
唐でやっと安定する。
 卑弥呼の約100年後に魏の後継国の晋が滅び、南方に逃げて東晋となります。
ここから六朝が、南北朝がはじまりますが、倭においては邪馬台国がそのごどうなったか、あいまいになっていきます。
北も南も大混乱。いやはや。倭国大乱どころの話ではない。晋の天子は奴隷としてこき使われたあと、殺される、ひどい話です。最初から殺してやればいいのに。とにかく意地が悪い。
空白の4世紀は中原も入れ替わり立ち代り、南朝も50年ごとに国が変わる。
東夷の半島も倭も中国のしばりから開放されていた。
なんという文化圏だろうか。残酷で節操のない。少なくともこの200年は。

神武東征は邪馬台国の男王の逃亡ルートだった  説。

神武東征の謎の一つに
最初の頃宇佐の次に遠賀川の河口である岡田宮に行ったことがあります。


安芸=広島に7年もいるのですから
岡田宮に行かず最初から宇佐から安芸に行けばいいわけですね。
わざわざ関門海峡という難所を越えて岡田宮=遠賀川河口のゾーンに行くのは
これは不自然極まりない。
軍団を募って合流するために行ったという話があります
⇒その場合、やはり安芸に7年、吉備に8年はおかしいですね
この頃周防から宇佐というのが交通の本線です。
景行天皇の九州遠征のときもそんなルートで九州に上陸してますね。
本州と九州の最短距離は、関門海峡を除くと
姫島から周防です。

宇佐周防というのは近いし、この地域は双方向こうが見えます。
本州と九州の接合点というと関門海峡が思い浮かびますが
航路として最高なのは宇佐から国東です。凪いでるし
広島から下関までの山岳ゾーンを歩かないでいいし、
そこを海路でいくなら同じ距離で宇佐経由の方が合理的です。

だから奈良方面に侵攻するなら宇佐からそのまま周防へ渡るのが当たり前です。
だからやはり逃亡経路なのだと思うのですね。
岡田宮までくると、宗像三女神の沖ノ島航路があります。
この航路に乗って半島に逃げようとしたのではないでしょうか。
奴国や一支国、対馬国は卑弥呼共立のメンバーでしょうから
受け入れるのは厳しかったでしょう。

半島のどこを目指していたかというと
帯方郡でしょう。
倭の王であると言えば政治的に利用できるということで亡命を受け入れたと思うのですね。
少なくとも情報はわんさか取れるわけですから。
するとまあ、こんなルートになります。

本当の神武航路
半島は沿岸を行くかもしれませんがだいたいこういう感じですね。

神武東征とは本当は岡田宮から沖ノ島を経由して半島へ逃げる逃亡だった。
それが岡田宮から断られたので仕方なく宇佐に引き返し、東へ向かわざるを得なくなった。

帯方郡
帯方郡(たいほうぐん)は、204年から313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点。楽浪郡の南半を割いた数県と、東の、南の韓、南端の(半島南端)がこれに属す。
公孫氏
後漢の末、中平6年(189年)に中国東北部遼東太守となった公孫度は、勢力を拡大して自立を強め、後漢の放棄した朝鮮半島へ進出、現在の平壌付近から漢城北方にかけての一帯にあった楽浪郡を支配下に置いた。

こういう話でみると
逃亡の王は帯方郡ではなくて公孫氏時代に半島に向かったのかもしれません。
さらにこうなると倭国大乱中の倭に介入し、倭の実効支配を目指したかもしれません。
そして混乱収拾のために倭王は公孫氏の誘いに乗って手を結ぼうとした。
それに慌てた他の国々は、卑弥呼を共立して大乱を終わらせた。
男王は廃位の上公孫氏のもとへ逃げようとした。

そうなるとややこしくなるので
岡田宮で追い返した。

そんな話でした。